南京サマースクールの終わりに

長いようで短い南京での生活が終わりを迎えた。本来ならばこの研修を総括する文言を残すべきなのだが、専門も将来の目標も異なる20名、それぞれの成果や感想を私が勝手にまとめてしまうのは、あまりにもおこがましい。よってここでは、今回の南京研修に対する私自身の思いを記すにとどめる。

 

今日の明け方、こんな夢を見た。

 

南京サマープログラム最終日。教室で南京大学の先生と話している。

 

「とうとう終わりましたね。お疲れさまでした。どうでしたか?」

「長いようで短い3週間でした。中国語はかなり伸びましたね」

「本当ですか?たった3週間でそんなに変わりましたか?」

「南京に来た日よりは格段に進歩しました。最初は一杯の麺を注文するだけで大騒ぎでしたから」

「それは単に耳と口が慣れただけでしょう、どの留学生も最初は話せないものですよ」

「ええ、それも多少はあるでしょう。でも言語は使えて初めて意味をなすもの、今まで1年半勉強してきた成果が、ここでやっと僅かながら形になりつつある、そんな気がします」

「ここで3週間の研修を行う目的の、少なくとも一つは達成されたようですね。恩を忘れず、これからも頑張ってください」

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“交わる”

生野菜のちょっとしたサラダとコーヒーのある、中国では珍しい朝食から始まった苏州での三日游も最終日を迎えた。そんな苏州での最後の訪問地は一昨日訪れた无锡にある三国城と同じく最高ランクに位置づけられる、国家5A級観光地の同里であった。

同里は写真のように、川沿いに明清代の面影を色濃く残す建物が立ち並ぶ風情ある景観で有名である。川と橋、そしてそれらとともに暮らす現地の人々の生活が生み出す日本とは異なる雰囲気を感じつつ、我々は清代後期の役人が作った庭園つきの邸宅である退思园に立ち寄った。

退思园ではもちろん美しい庭園も見たものの、ここでは異国の地にまで来て学ぶ者として客間の掛け軸の言葉に着目したいと思う。

左右に書かれた文字は以下の通りである。

種木者必培其根

種徳者必養其心

物事を学ぶにあたって必要な心構えを説いたものであろう。素直な心構えで学習に臨みたいと思った。

淡白な味付けの蘇州料理を堪能した後、午後一番に200km強離れた南京へ帰るためにバスに乗った。バスの中では珍しく眠くならなかったので、老师と少しお話をした。もうすぐ中国に来て3週間となるが、中国人が話す中国語が聞き取れない、などのことを話していると、話題は自然と言語に関するものとなった。我々が日本で学習している中国語は北京方言をもとに作られた普通话であるため巻き舌音が多いが、南京や苏州を含む長江以南の地方ではあまり巻き舌が見られない、ということは日本での授業で習っていた。しかし、南京方言はまたこれとは異なる特色があるとのことである。地理的には中国の南方に位置する南京ではあるが、北方から移住してきた漢民族が使う方言が交わった結果、北方方言の特徴も併せ持つ南京独特の方言が生まれたそうである。我々の行程に同行してくださった南京在住のガイドさんの話によく耳を傾けてみると、南京方言を耳に挟むことができた。その典型が“写真”を意味する“照片”の発音であった。拼音ではzhao pian と表記するが、ガイドさんの発音は巻き舌音であるhの音が欠落する南方方言の特徴と、語尾を儿(er)化する北方方言の特徴が一つの単語の中に同居していたため、zao pianer と表記できるような発音となり、普通话しかを学習してこなかった私にとってはなんとも不思議に聞こえた。単語ひとつとっても文化の交わりが見られる点は非常に興味深く思われた。この会話の後に、私はバスに揺られつつ少し考え事をしてみた。これまでの中国での滞在で我々は多くのものや人と交流してきたはずである。では交わる機会を得た上で何をすべきであろうか。安直な考えではあるが、その交わりを今後の自分を形作っていくための材料として活かしていくことが重要なのではないかという結論に至った。

 

 

翌日に结业式を控えているため今日は南京最後の自由夕食となった。せっかく中国にいるからにはやはり現地ならではのものを食べたいと思い、中国の食生活との交わりを求めて個人経営の店に行き、汤包を堪能した。

明日で南京での活動も最終日を迎える。最後の1日も新たな交わりを求めてアクティブに活動したいと思う。 (D.D)

ここで見たこと

今日も暑かった。バス移動以外は当然徒歩なのだが、これがかなり辛い。快晴36度、しかも日陰が少ない。折りたたみ傘を日傘として代用する人もいた。目が窪んでいた同学もいたのだが大丈夫だろうか。これまでの疲れがたまっているにちがいなかった。

今日の活動内容は次の通りだった。
午前 蘇州太湖国家湿地公園
午後 寒山寺・昆曲博物館

午前は2時間ほどバスに乗って、蘇州太湖国家湿地公園へ行った。
ここは湿地の公園で中にパンダ園や上海万博(2010)の説明展示等があった。湿地というよりすでに湖だが、そこではボートが移動手段だった。ボートであちらこちらに移動した。
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太湖

南京サマースクールも終盤に差し掛かり、中国語の授業も無事終わって、今日から8/25日までの三日間は蘇州・無錫への旅行ということで、朝8時頃我々が今まで泊まっていた華達ホテルを発った。この旅行が終わったらホテルに戻ってくるので、大体の荷物は置いていくことになり、まだ食べていないマンゴーたちが傷まないか一抹の不安を覚えながらの出立となった。

ホテルからバスで3時間ほど乗って最初に向かった先は水滸城で、中学時代に読んだ水滸伝を思い出しつつガイドさんの話を聞きながら、少し山を登った忠義堂という所から太湖を眺めた。中国で三番目の大きさを誇り、琵琶湖の3倍ほどもあるだけあって、全体を見通すことはできなかったものの、本日は天候にも恵まれ、綺麗な太湖が見られた。

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日本語をがんばっている中国人たちを見て

南京の生活も終盤に近づいてきた。最初は全然わからなかった中国語の先生のお話も徐々にわかってきたし、中国語の歌もだんだん歌詞を覚えてきた。

 

でも、そうはいっても聞き取れる言葉をつなぎあわせて意味を推定しようとしているだけである。あとどれだけすれば自分の満足するレベルに達するのだろう。。。

 

そんな中、以前から知っている南京大学の友達に紅楼夢の博物館などに観光に連れていってもらった。彼女は去年の11月の東大との連携プログラムで東京に一度きており、さらに今年の4月から8月まで日本の大学に留学していたので日本でも会う機会は多かった。大学院生なので、ぼくにとってはお姉さん(姐姐)みたいな感じである。

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好好学習 天天向上

南京16日目。翌々日から蘇州への小旅行、翌日は試験なので授業としては最終日である。長かった……。いや短かった……?

客観的な数字を並べてみる。3日目から始まった授業は、午前8時~12時の間に50分×4コマ、前半が読解で後半が会話、これが平日毎日あった。読解と会話でそれぞれ20コマ、普段の大学の授業(105分)でいえば10コマ分。一学期分近くの授業を一気に受けたことになる。さらに生詞(新出単語)を数えてみると、読解の方で168、会話の方で151。

ものすごい密度だ。当たり前だが毎日予習復習をしなければならない(次の日にもう次の授業が来てしまう)ので、その意味でも密度が濃い。学力向上には早いうちに復習するのが一番だなあと、試験前に大体の復習をまわしてしまう愚かな私は今さらながらに実感するのであった。

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イケメンと猫、時々アサリ。

8月20日。南京に来てから、よく夢を見るようになった。それも決まってイケメンに関する夢。ついこの間なんて、ジャスティン・ビーバーと禁断の恋に落ちるというわけのわからない夢を見た。ファンでもないのに。今日もイケメンの夢から覚め、ハッピーな1日が始まった。

午前中は南京博物館へ行った。一番印象に残ったのは、特別展「帝国盛世」、歴史館の某展示物、そして民国館である。その某展示物を何に使うかは、写真を見て想像していただきたい。この展示物に関する説明自体は六朝博物館で受けていたので、お目にかかるのは2回目だったのだが、やはり何度見ても異彩を放っていると思う。民国館の方は、その当時の街並みや商品が再現されていて、タイムスリップした気分を味わえる。

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異文化との遭遇

ついに南京に来て2回目の週末を迎えた。2週目にして既に日本に帰りたいムードが自分の中で高まっていたが、昨日の夜学校付近の書店の映画観賞会で見た「傲慢と偏見」の映画のおかげで今日はいつもより幸福感に包まれた朝を迎えることができた。(飲み物とケーキ付きで映画まで見て30元、中国の飲食系ビジネスはどうやって成り立っているのだろうかと時々不安になる、広告費などを削っているのだろうか。)

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遇見

日報の担当が昨日だったら良かったのに。そう思うことから私の一日は始まった。

昨日は、おそらく南京サマースクール史上最多であろう五回目の玄武門公園散歩を敢行し、「千と千尋」の舞台のような場所で南京生活上もっとも美味いものを食べ、授業では自分の専攻となるだろう哲学についていい授業を受けた。そうして体力の限り南京を楽しんだ次の日である。起きない身体を強迫観念が動かしてほぼ無意識に通学路を通り教室に着き、そこで今日の予定について考えていた。午前8時から12時までの授業、午後2時から3時は太極拳、その後洗濯を済ませ、大抵の餐厅(料理屋)が閉まる8時半までに夕飯を食べる。そんな一日だ。

南京での生活を「わかって」しまったかもしれない、とふと思った。それは今日一日の過ごしかただけではなく、南京の街や、南京の人々、店にあるもの、そうしたいろいろについて「わかって」いるかもしれない、ということだ。そう思いつつ一日を過ごしてみると、いろいろなものが「わかる」ことに気づいた。
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日本のやり方、中国のやり方

中国についてからというもの日本ではあまり良い目で見られないような行動をしている人を多く見かける。道を上裸で歩いている、道に痰を吐く、店員の態度が悪い等等。だがそれは本当に良くないことなのだろうか。これらは中国では自分に直接害を及ぼさないことにあまり関心を持たないことに起因するように思われる。路上で上裸で歩いていようが、店員が何か食べたり電話で話したりしながら接客しようが、歩いているとクラクションを何度も鳴らして警告してこようがなぜ気にしなければならないのかというように。暑かったら脱ぐのが当然だろうし、別に用が足せるなら何していても問題ないし、人や車もそれぞれ調整しつつ通っていけば無駄がないだろう。自分も中国に生まれていれば間違いなく同じように行動していたはずだ。だがそう分かっていても気分を害してしまう自分がいる。また同学も皆同じように感じてしまうらしい。やはり日本人はルールが好きなようだ。まず放置して、衝突が起きたら各自が調節していくというようなやり方ではなく、まず起こりうる問題を予測してルールを作り衝突が起きないようにそれを遵守するというように。ゆえにルールを外れた行いを強く忌避するのではないか。だとすれば日本はなんと窮屈な国であろうか。各自の自由は中国よりもむしろ制限されてはいないか。衝突を起こすことを恐れるあまり、各自の利益の増加させることよりもルールの遵守を優先してしまってはいないか。

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