Cを探す日常

3週間にわたる南京研修も、もう終盤。今日は授業最終日ということで、期末試験と期末発表で14回の授業を締めくくった。毎回先生に名前を間違えられ、発音を直される日常が終わると思うと感慨深い。

この研修を通して、中国語の上達を感じている。しかし、それは授業で先生がゆっくりと話してくれているのを聞き取れるようになっただけで、日常会話を聞き取るのはやはり難しい。強いて言えば、聞き流した上で文脈からなんとなく察するのが上手くなったくらいだろうか。交流の際はともかく、授業以外で現地の人と会話をするのは未だに怖い。それでも、「中国」を発見するために街を歩いた。知識不足ゆえに的外れな部分もあるとは思うが、ここでは私が見てきた「中国」についての思考の過程を言語化し、書き記そうと思う。

南京の繁華街・新街口は、高層ビルが立ち並び、高級ブランドや高級飲食店が軒を連ね、さながら日本の渋谷のようだ。一方で、新街口の大通りから少しでも外れると、平屋家が立ち並び、道路も舗装されていない街並みが目に入る。また、南京の中心部から外れると、この暑い気候にも関わらずエアコンもなく、吹き抜けになっている古い住宅街が目につき、そのギャップに驚かされた。

GDP世界2位の経済大国である中国だが、格差が非常に大きいように感じる。大都市南京の中でさえこの状況なのだから、都市と農村部の格差の大きさは計り知れないだろう。これは中国経済に関する講義で学んだことだが、こうした状況の背景には、中国共産党が国の全リソース(労働力・資本)を回収せんとする、現在まで尾を引く計画経済体制の影響と、中国の広大さゆえに複雑な歴史・民族関係によって政府がもつようになった強い影響力があるようである。リソースを無駄に配分せず、必要な部分だけに投入することが、南京市内の主要部とそれ以外との発展の速度の差を生んだのである。

街の光景は、至るところから文化を主張してくる。そのメッセージを受け取ることができなければ、文化を理解することはできない。また、外から本で学ぶだけでは、見えてこないものもある。文化理解は、政治・歴史などのマクロな視点と、実際にこの目で確かめるミクロな視点が伴ってこそ初めて可能になるのだ。

もう1つ例を示したい。夕飯を食べにレストランに入ったとき、男女二人組と相席になったが、彼らは臆面もなく戯れあっていた(勘違いしないでいただきたいのだが、彼らは私たちとも話をしてくれた)。また、多くの人々は人目を憚ることなく地下鉄やレストランでは大声で話し、街に出れば音楽を大音量で流して歩く。日本では冷たい目で見られるこのような人たちを、中国人は特に気にかけることはない。こうした国民性も歴史的背景から説明できる。中国人には宗族に対する礼儀を重視する文化があったため、気を使う範囲は「内側」にとどまる。一方で、日本は村八分など集団を重視する習慣があったため、「外側」にも気を遣い、衆目を浴びることを避けようとする。歴史的背景というマクロと、実際に見たミクロの両方があって、初めて中国人の国民性を深く理解できた。

この知見を得てから、異文化の理解が一段と深くなったように感じる。今後は背景知識を増やすことと、周りをよく観察することの両方を怠らないようにしていきたい。

 

追記

研修の序盤、引率の先生と話しているときに『吃得好』という店が美味しいと聞いたので、私も行ってみることにした。ホテルのすぐ近くの通りにあるとのことなのだが、一向に見つからない。そのまま時は流れ、授業が終わった今日、気づいたことが。

『吃得好(chīdehǎo)』じゃなくて『七德好(qīdéhǎo)』じゃねーか!!!(発音はほぼ同じ)

毎日その通りを歩いていたのになぜ気づかなかったのか。いやまあ、それっぽい名前じゃないですか?吃得好。調べない自分が悪いんですけど。

毎日の発音の練習が無駄になった瞬間だった。文脈から察するだけではだめだということだろう。南京研修ももう終わりですよ、ちくしょう!

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