危険は、音も無く忍び寄る。
これまで幾度となく同学たちの安全を脅かしてきたのが、南京の街を絶えず往来する电动车であった。 大学の周辺には、車一台がやっと通れる幅の路地も少なくないが、摩托车に比べて車体が一回り小さいこの電動二輪車にとって、歩行者と自動車の間は50センチもあれば十分らしい。駆動音の小さい「奴ら」が背後から飛び込んでくるのを認識する術は、接触直前に鳴らされるクラクションをおいて他に無い。
今日は8月23日。南京に来て20日目ともなれば、最早慣れたものだ。今やクラクションを鳴らされても、後ろを振り向きすらしなくなった。避ける必要はない。「今から横を通るぞ」という合図に過ぎないのだから。
さて、私が侵华日军南京大屠杀遇难同胞纪念馆、通称南京大虐殺紀念館を訪れたのは、そんな交通事情にも未だ馴染めない第一週のことであった。
所謂「負の遺産」には、小さい頃何度か両親に連れられて行ったことがある。
「なんで、戦争をしてはいけないんだと思う?」
小学生に投げ掛けるにはやや大きすぎる疑問に、あの頃の自分は、何と答えていただろうか。
個人が、個人でいられなくなるから。
今なら間違いなくそう答える。
紀念館のゲートをくぐるとまず目に入る、逃げ惑う被害者を象った石像たち。それぞれの碑に付された説明文で、「日本軍」は「悪魔」と表現されていた。
石垣に刻まれた、身元の分かる犠牲者の名前は、総数30万人の、10分の1にも満たなかった。
発掘され、鑑定された白骨の内およそ半数は、性別すら特定されていない。当然、個人の身元など分かる筈は、無かった。
そこでは、犠牲者は「数」だった。
掠奪、強姦、虐殺。
戦争という大きなうねりに対峙した個人の、なんと無力なことか。
私は南京の街で三週間を過ごす中で、様々な「個人」を目の当たりにしてきた。近年の生活水準の向上を嬉しそうに語る先生の話を聞き、日本に渡り社会科学を専攻するという目標を教えてくれた高校生と知り合った。
毎朝同じ路上で、裸で体操をしているお爺さんや、学生食堂の鉄板を一人で取り仕切る寡黙な料理人さんのように、特別に会話をしたわけでない人々も、皆それぞれ自分らしく活き活きとした生活を送る、「個人」だったのだろう。国民の人権、特に言論やプライバシーの権利の制約が強いこの国でも、一体誰がそれを邪魔できようか。
前事不忘,后事之师。
紀念館の最後には、「戦国策」から引用された成語が、大きく掲げられていた。
過去の事件を忘れないことが、未来の教訓になる。その日は日曜日だったのもあってか、子ども連れで参観に来ている家族が非常に多かった。まさに未来を担う子どもたちは、悲惨な記録の数々を見て、何を考えていたのだろうか。躊躇って聞けなかったその理由は、中国語能力への不安だけでは無かった。
日本では、戦争を肌で経験した世代が年々減りゆくと共に、危険を知らせる足音も、耳をすまさなければ聞こえないほどに、小さくなりつつある。
後ろを振り返らなければ、危険は認識できない。
気が付いた時には、既に背後に迫っているのだ。