聞こえないもの、見えないもの

危険は、音も無く忍び寄る。

これまで幾度となく同学たちの安全を脅かしてきたのが、南京の街を絶えず往来する电动车であった。 大学の周辺には、車一台がやっと通れる幅の路地も少なくないが、摩托车に比べて車体が一回り小さいこの電動二輪車にとって、歩行者と自動車の間は50センチもあれば十分らしい。駆動音の小さい「奴ら」が背後から飛び込んでくるのを認識する術は、接触直前に鳴らされるクラクションをおいて他に無い。

今日は8月23日。南京に来て20日目ともなれば、最早慣れたものだ。今やクラクションを鳴らされても、後ろを振り向きすらしなくなった。避ける必要はない。「今から横を通るぞ」という合図に過ぎないのだから。続きを読む »

耳をすませば

私は、海外に行くたびに決まってすることがある。それは、その国の公園や出店などごくごくローカルなところで地元の人々をさりげなーく観察することである。どんな会話をしているのだろうか。どんな活動をしているのだろうか。普段生活している時は気にならないような部分にあえて注目してみると、ニュースや人伝えでは伝わり切らないその国の特徴が少しずつ露わになってくるのである。私はまさにこれが、現地に行って生活する人のみが体験できる特権であると思っている。

勿論この南京研修でも、その「人間観察」は私の毎日の密かな楽しみとなっている。

南京研修も残り僅か3日となってしまった本日まで私は南京市内の多くの場所に訪れ、その場の雰囲気に酔いしれながら人々を観察し、人々と触れ合ってきた。

そこで私はどこかに行くたびに思うのだ。

「人が集まっているところには、音楽が流れている」と。

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中国といえばパンダ!

“在来中国之前,你对中国的想象是怎样的?”

「中国に来る前、中国に対してどのような想像をしていましたか?」

これは、中国の高校生が私たちに聞きたいと用意していた質問だ。

この質問を耳にしたとき、私は言葉に詰まってしまった。

私にとって、中国のイメージをあげることは、難しくなかったはずだった。

パンダ、餃子…一般的に挙げられる中国のイメージは豊富であるから、当たり前かもしれない。

しかし、あるものについて「一般的に」通用しているイメージが良いものだけではないのも事実である。

さらに、その一般的なイメージはさまざまな情報がさまざまな意図の下で飛び交う世界で形作られたものに他ならない。

せっかく直接交流する機会に巡り合ったのに、「中国といえばパンダ!」という陳腐なイメージを伝えるのもつまらないし、相手の気分を害すのはもっての外だろう。

そんなことをぐるぐると考えているうちに、何と答えてよいかわからなくなってしまったのだ。続きを読む »

Cを探す日常

3週間にわたる南京研修も、もう終盤。今日は授業最終日ということで、期末試験と期末発表で14回の授業を締めくくった。毎回先生に名前を間違えられ、発音を直される日常が終わると思うと感慨深い。

この研修を通して、中国語の上達を感じている。しかし、それは授業で先生がゆっくりと話してくれているのを聞き取れるようになっただけで、日常会話を聞き取るのはやはり難しい。強いて言えば、聞き流した上で文脈からなんとなく察するのが上手くなったくらいだろうか。交流の際はともかく、授業以外で現地の人と会話をするのは未だに怖い。それでも、「中国」を発見するために街を歩いた。知識不足ゆえに的外れな部分もあるとは思うが、ここでは私が見てきた「中国」についての思考の過程を言語化し、書き記そうと思う。

南京の繁華街・新街口は、高層ビルが立ち並び、高級ブランドや高級飲食店が軒を連ね、さながら日本の渋谷のようだ。一方で、新街口の大通りから少しでも外れると、平屋家が立ち並び、道路も舗装されていない街並みが目に入る。また、南京の中心部から外れると、この暑い気候にも関わらずエアコンもなく、吹き抜けになっている古い住宅街が目につき、そのギャップに驚かされた。続きを読む »

中国の「生」の声

2009年春。

はじめに個人的な事を申し上げると、海外で現地の小学校に通っていたある日、教員が南京事件などをテーマとした抗日映画を授業で流した。見終わった後、クラスで唯一の日本人だった私はただでさえ気まずかった上、あるクラスメート(中国人ではない)からは心無い言葉を浴びた。一方で、前後の授業では全くこの事を取り扱わなかった上、そもそも事件の存在さえ初めて知った自分からは何も発信できなかったため、悶々とした日が何日か続いた。

 

2019817日。

上記のような経験があったため、自分は南京事件に興味がある方だと思っていた。そして、中国南京を訪れたからには中国側の視点からこの事件を見たいと考え、昼過ぎに侵華日軍南京大屠殺遭難同胞紀念館へ向かった。展示の各部分に目を向けると、例えば地図や地下鉄の駅名などで見覚えのある場所が、80年前は多くの犠牲者が出た現場となっていた(午前訪れた中山陵のある紫金山でもやはり事件があった)という事など、衝撃を受けたものもあった。しかし、展示が「平和を志向・堅守すべきであるし、歴史も記憶すべきであるが、恨みは継続すべきではない」という、予想より「強くない」言葉で締められていた事もあり、展示全体に対する具体的な感想は自分としては持ちづらかった。続きを読む »

人を生きる〜字からの解放〜

––8月16日、いつものように暑さと連日の疲れで心地好い悠久の世界を満喫していると、これまたいつものように、とある侵略者の声が聞こえてきた

「最後通牒、7時40分だ。出るぞ」

そうだった、今日も授業ではないか、私の世界を破壊した事は許せぬがさりとて感謝せねばなるまい

こうして同屋の相変わらずな優しさを享受しつつ私の一日は始まった––

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恥の多い生涯を送ってきました

まずはこの日報の大前提として、僭越ながら私の趣味を述べさせて頂きたい。

世の中には相撲を取ることを職業にする人がいれば、揚げ足を取るのが趣味の嫌な奴もいて、十人十色。かく言う私が嬉々として取るのは、ジャジャーン。マウントです。(「マウントを取る」俗語で、相手に対して自分の優位性をアピールすることの意)

マウントを取るという行為は、なんとも気分が良い。時には自分の得意分野で、時には相手の得意分野で、自分が優位に立っていることをアピール。

例えば一時期のツイッターでは「俺は〜だけど、お前は?笑」という構文が大流行した。(例:俺は彼女持ちだけど、お前は?笑)

こういった流行は、マウントを取ることが人類共通の趣味嗜好であることを表している。(私見です)続きを読む »

言語と文化、言語の文化

南京サマースクールは早くも2週目の週末に入り、残りはおよそ1週間となった。ここまでの旅程を振り返り自分が有意義な2週間を過ごせたかと問われると答えるのが難しい。そもそも「有意義」という概念の捉え方が難しい。もちろん中国語のレベルの向上、中国文化への理解の深化といった南京に来る上での目標を頭の片隅に入れながら生活しているつもりである。しかし、果たして自分はその目標を達成するための最善の生活を送っているのだろうかと考えると、相手の目をまっすぐと見て「『有意義』に過ごしています。」とは言えなくなってしまう。

それでも、自分で言うのも気が引けるが中国語のレベルの向上に関しては一定の成果が得られたように思える。これまで苦手としてきた聞き取りに関しても、中国語の先生や観光地のガイドが話す言葉は大体理解することができるようになった。しかしそれも相手が普通话で話してくれているときに限る。ひとたび相手が南京话(南京方言)を話せば、その強い語気に圧倒されてまったく聞き取ることができなくなってしまい、そのたびに自分の中国語レベルの至らなさを痛感する。

南京に限らず、中国の各地域にはその土地固有の方言があり、北京の人が聞き取ることのできないものも多いと聞く。それを考えると普通话を話せるようになっただけで中国のすべてを知ったような気になるのはかなり傲慢な態度だと言えるだろう。もちろん普段方言を話す大部分の人々も教育やメディアを通じて普通话に触れているため普通话での会話に大きな支障はないはずである。しかし、彼らの生活様式は方言として発現し、またその方言は彼らの思考を司っている。故に、南京の人たちの本当の姿を知るための唯一最善の手段は南京话を習得することなのかもしれない。(実際に私が今やるべきなのは普通话の習得なのだが)続きを読む »

扯铃好きな人と繋がりたい

8/15(木) 今年のサマースクールもあっという間に後半に突入。朝7時過ぎ起床から中国語の授業、午後はその他の活動、そして自由に晩ご飯を求め街中に出歩く。こちらでの生活もすっかり習慣化してきた。

本題に入ろう。私が目で見て肌で感じた中国とは何か。確かに日本との違いは当然見えてくる。レストランの従業員は営業中にスマホをいじり、タクシーの運転手は会話しないどころか大欠伸、ホテルでは私が寝ていることなど構わず大音量のノックで攻撃(もちろん请勿打扰は点けていた)。あえて否定的なものを並べたが、これは私が睡眠を妨害された個人的な恨みからであり(睡眠は大事だから!しかも風邪だったし!)、考えれば考えるほど日本人である私が一方的に自分の価値観で叩いて良いものではないと思えてくる。彼らは自分の達成すべき仕事は全うしている、と胸を張って言える。こういう考え方は自分好みなのだが、日本のサービスの水準に慣れてしまっていた。続きを読む »

「生身の中国」に迫るには

サマースクールもいよいよ折り返し、改めてこのプログラムでの⾃分の⽬標について考え直していたところ、⽇報の担当が回ってきてしまった。いわく、私が発⾒した「中国」を記せという。しかし、いざ⾃分が執筆するとなると、少なからぬ抵抗を感じる。私は、前から「中国」に対して⾃分なりに関⼼を抱いてきた し、「中国」についての情報を積極的に集めてきた。だが、⼤学に⼊って本格的に中国語を学び始めてから、まだ1年半。そんな私個⼈の中国での体験を記し、さらにはそれを読者と共有するには、あまりにも知識が⾜りなすぎる。知識を⽋いた体験談、それを基にした論考は、往往にして的を外したものになりがちだ。だがここでは、そんな葛藤をうちに抱えつつも、何か有意義な読み物を届けることが求められているのだろう。

街中を歩いて気づく南京の発達ぶりは、事前の予想通りか、あるいはそれを上回るものがある。南京随⼀の繁華街・新街⼝を歩けば両脇にはティファニーやブルガリといった⾼級ブランドの⼤型店が並ぶ。スターバックスも街の⾄る所にある。少し洒落た店に⼊ればBGMには洋楽がかかっている。無論、まだまだ街中は完全に衛⽣的とは⾔い難いし、店員の接客、客のマナーといった部分も改善の余地は⼤きい。だが、それもすべての先進国が辿ってきた道。今後の成⻑に伴って確実に改善されていくだろう。そう考えると、中国は確実に⻄側の国に近づいている。

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